2013年11月12日

海の瞳

まだ浅い歳月は巻物にもならず、扇を開いたように潮騒を扇いでいた。十年がひと昔と呼ばれる時代は抽斗から取り出せば、写真を必要とはしなかった。なぜなら、この町での写真にわたしが写るには、あまりにも人が幻想であったからだ。
 小さな港町の埠頭を昼も夜も歩きながら、もっとも心を許せたのは、果てしない空と底知れぬ海の顕在意識のような波、そして、湾を取り囲む緑の山並みと、海から吹き寄せる物言わぬ風神だった。すべての自然現象に宿る精霊の存在を教えてくれていた。彼らの厳かなる壮麗な姿との対話を交わし続けることの神秘さと神聖さは、わたしに潜在している超意識から伝え続けられていた。
 おそらく、この小さな港町に来ていなければすべての魂に潜在している威厳さに出逢うことはなかっただろう。そう、顕在している波に運ばれる船舶を無事に港に手繰り寄せているのは、見知らぬ海底の潜在意識の奥深くの超意識なのだから。時には嵐となって顕在意識が荒れ狂っていたとしても、海の魂の源の意思は人間には計り知れないものだった。
 今、伝えられている情報の事実だって、真実なのか?それは分からない。人間の手により都合のいいように書き換えられた偽りの英雄も数知れず。すべては魔神が人間に憑依して、愛の宇宙とは逆廻りの意思に侵襲されているのがこの地球。魂の強さとは、超意識の神から伝えられた知恵との一体化により、無極の美の創作と創生を育むことができるため、表沙汰にできない虚構への執着とは無に等しいからだ。波に煌く太陽の光のすべてが海の瞳であると、超意識の貴方が伝えてくれていた。空の太陽を瞳に入れて、波止場は静寂を愛していた。





posted by 水月 りら at 21:02| 散文 | 更新情報をチェックする

2013年10月04日

潜在意識の行方

あることがきっかけで、ダウジングをするようになった。ダウジングとは、潜在意識と直結していて、ダウザーの持つ振り子の揺れは、潜在意識から動かされている超常現象でもあると説明されている。私が持つ振り子の揺れは尋常ではなかった。潜在意識とは、誰にでも存在するものではあるが、決して目には映らない。けれど、私達はこの潜在意識に存在している見えない力によって、全てが動かされていると言うことが、ダウジングを体験して実感せざるを得なかった。
 潜在意識の深部の超意識が魂そのものであり、顕在意識とは命である。魂はひとつであり、私達はこの超意識の魂の純粋意識で、すべての人の心は温かく繋がっている。純粋意識がなければ、私達は誰とも誠実で信じ合える繋がりを持つことができない。私がダウジングで引き出したものは、この超意識である純粋意識からの伝言だった。つまり、ダウジングを通して、私はチャネリング(常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手《高次の霊的存在・神・死者・未来人など》とコミュニケーションをすることである)をより確かなものとしてしまった。けれど、それには危険が伴っていた。ダウジングは、高次の超意識だけに繋がる訳ではなく、低次の醜い悪神と繋がってしまうこともあったからだ。ダウジングは、霊性の低い人には無茶苦茶に揺れて、その人を不幸にする。また、営利目的、利己的なための利用などでは絶対に行ってはならない、と言うのが真相だった。神の領域に達するものだけが真実の情報を得られるが、そこに到達するまでに悪神の心理攻撃に呑まれることのない類稀な強い精神力が必要であったからだ。この私の気宇な体験は恐らく信じ難いもの。娘は、私をシュールな世界に生きていると言うが、ダウジングにより、太陽を直視しても私の網膜は潰れず、人間を超えた私の網膜は謎の超常な現実だった。





posted by 水月 りら at 19:36| 散文 | 更新情報をチェックする

2013年10月02日

必要なメディアはメディアの方からやってくる

 新聞・娯楽テレビ・娯楽雑誌などから遠ざかってしまってから彼これ五~六年になる。意識的にそうしていた訳ではないのだが、興味のないものに時間を費やすことが無駄に思えたこともある。特に震災後からは、近隣の友人とのつき合いの間隔を空け、少しずつ疎遠にしている。必要以上のつき合いは雑念が掘り出されてしまうため、絆だとか支え合いだとかは距離をあけてのつき合いから育まれると思えたからだ。その分、詩誌や詩集を読み、詩を書く時間を作れるようになっていた。ネット詩やツイッターに投稿された詩をよく読んでいたが、それも昨年から読まなくなりネットからも遠ざかってしまった。
 テレビは夕食を食べているときにNHKのニュースを見る程度。中二の息子の塾の帰りが遅いときは、ニュース以外の番組を少しだけ見ることがある。民間放送は何年も見ていない。新聞は忙しいので読まない。新聞代が勿体無いのだがたまに必要なので取っている。そんな風にここ数年で、不必要な情報源を自らシャットアウトして、楽になっていた。訪問看護の仕事は、実は新聞に縁の深い仕事なのだ。患者さんの家で排泄物の処置には新聞紙を必ず用意してもらっている。惜しみなく使えて捨てられるからだ。その時に広げた新聞記事が、偶然にも自分に必要であり興味深いものだったりすることが多くある。そんな時、新聞の日付など覚え家で読み、家にない新聞ならこっそり持って帰って読んでいた。自分から情報を求めなくても、必要な情報は情報の方からわたしのところに飛び込んできてくれる。何かに引き寄せられてやってくる厳選された情報のみ、自分を活性化させる栄養分として取り入れている。この引き寄せの不思議な現象に、新聞読まず、テレビ見ず、宣伝知らずのわたしは助けられている。不要な情報を遮断することが、豊富過多の肥満化したメディアとのつき合い方なのだと分かってきた。
 何故なら、現代の大半のメディアは加工食品のようなものだからだ。美味しそうに見えていても、化学薬品や添加物も多く含まれて汚染された状態で発信されているものが多くあるように思える。もちろん中には、未知なる知識を得たり、オリンピックやパラリンピックの感動場面や、弱い立場の民衆をサポートするための良心的なドキュメンタリーも多くあり、全ての情報が悪いとは思わない。だからこそ、毒性のあるメディアは自分から拒否しなければならないし、どれほど美味に見えても食してはならないものもある。故に選び抜かれた食材が使われているかの吟味が必要であり、メディアは受け取る側が選択していかなくてはならない。それが、現代の排気ガスが充満したような、あるいは腸内蠕動運動不良の排泄物を溜め込んだ腸(イレ)閉塞(ウス)状態のような病的なメディアから、身を守る方法のひとつだと思える。
 たいていの人は言葉に翻弄されやすい。言葉とは曖昧なものであり、いくつかの解釈ができる。例えば、「バカヤロウ」と言われれば、その言葉だけで暴力めいたものが想像される。現代の人びとの弱点は想像力の乏しくなったことだ。だから、余計に中途半端なメディアに振り回されなくてならないのだろう。「バカヤロウ」とその言葉だけを読んではならない。発信された意図を読むところに、メディアの真実性を見抜くことができるのではないだろうか。「バカヤロウ」としか言えなかった人の境遇や心情の背景に何があったのか、複眼的な目で読まなければならない。良心的でないメディアは発信される側の都合の良いように発信されている。そのことを念頭に置いて発信されたメディアの内容を疑ってみることも必要であり、また、前面、背面、左右側面からの情報収集と客観的な情報の状況分析をする必要性もあると思う。
 原発の問題も、不誠実なメディアに翻弄されていると思える。日本は核兵器で被爆したにも関わらず、当時の政府は米国の冷戦戦略を受け入れ原子力を導入し、「原子力の平和利用」と演説され、政府の手厚い保護下に置かれてきた。それ故発達した大量の電力をわたしたちは使わずにはいられなくなってしまった。原発を止めることが解決ではないと思える。それに変わる安全で環境に優しい対策を推し進めていくことが必要なのだと思う。自分の立場だけを保護しようと翻弄されている政治家たちは、あちらを立てればこちらが立たず、という状況で、彼らの意図は選挙に当選する目的のために庶民に答えようとして、あるいは自己に投資される資金に目が眩み人間への愛を見失っている。しかし、彼らの翻弄は身勝手な人間の一部であり、わたしの中にも彼らと同じ身勝手さが無いとは言い切れない。生活のための翻弄なのだと、そう思える。それぞれ違う立場の人間がせめぎ合うことよりも、原発以外で必要量の電力をコストを安くした状態で賄える方法の実施のためには、ひとりひとりが、どういう方向で努力をしていけばいいものなのか?(努力の方向性を間違えてしまえば空回りになってしまう)原発で生計を立てている人や町の生活保障はされてゆくのか?何に覚悟していかなければならないものなのか?反対と叫ぶ人々に、そのあたりのことを明確にして説明されなければならないと思う。わたし自身、原発十キロ圏内に住んでいながら、電力制限の生活のために、パソコンやケータイが使えなくなってしまったら、たちまち困ってしまう。不必要なメディアをシャットアウトしたものの、必要な活動の多くをパソコンやケータイを使っている。しかし、それは勝手な現代人の都合にしか過ぎない。生まれていない遺伝子までを破壊し、海に毒を流し母なる地球を汚し続けているということを、電力を必要としていること以上に認めていかなくてはならないと思う。他力本願かもしれないが、安全でよりコストが安く環境汚染のない電力を供給できる手段を発掘していける人材が現れることを早急に願っている。しかし、想像力の乏しくなった現代人から、エジソンやアインシュタインを上回る発明人が育っていくことが困難だと、どこからか空しい答えが跳ね返ってくるばかりなのだ。大震災で原発が破壊されたこと、大飯原発再稼動にあたり、クラゲが大量発生してフルパワーでの再稼動を妨げたことなどの自然現象は、絶対的な宇宙の創造者の意志のように思えてならない。「あれほど多くのことが犠牲になったのに、まだ分からないのか」と、穏やかな舞鶴の内海の底から唸りが聴こえてならない。
 京都府亀岡市の、未成年の無免許居眠り運転で、登校中の子どもやその保護者、中には妊娠されていた方がその車に轢かれて亡くなられた。この事件の発端は、未成年の少年が無免許で運転されていた違反を放置していた周囲の大人に大きな責任があると思う。しかしながら、メディアはそのことよりも道路状況の問題を重点的に報道したために、京都府は全域の通学路の危険箇所の調査を実施した。道路状態が良くなることは悪いことではない。けれど、無免許で運転していた少年への今までの対応を振り返り、大人は深く反省すべきだと思う。メディアでもあまり深く触れられずにいたため、本当に大事なことは流されてしまっていた。少年の乱れた行いの責任は全ての大人にあり、大人の心のズルさが、児童、少年少女の心ない事件へと顕れているのだということの認識が、わたしたちには最も大事なことなのではないかと思う。
 滋賀県大津市のいじめ問題の教育委員会の対応にしても同じようなことが伺える。いじめを喧嘩だと思ったという理由にならない理由で放置されて、学校は臭いものに蓋をするように穏便を装っていた。この問題に関しては明るみになって本当に良かったと思う。いじめは永遠に無くなることはないからだ。何故なら、いじめそのものが悪い訳ではないと思う。いじめという行為は、子どもの成長過程において無くてはならないものとも考えられる。いじめられたりいじめたりしながら、子どもはより良き人間関係とは他者にどういう態度で接していけばいいのか、身に覚えさせて成長していく側面があると思う。この子どもの成長過程に必要な人間関係のトラブルを、ただマイナス面の方向からの偏った視点で、いじめはダメだと子どもに発信すると、子どもは多少なりとも誰かをいじめている自分を否定されたように思い、大人の前で良い子を装う仮面優等生では、本当の意味での問題解決にはなっていない。いじめとは日常茶飯事の出来事であり、大人の世界にも多くあり得ることなのに、子どもの世界だけ否定されるなんて、大人はあまりにも不公平なことを子どもに押し付けてはいないだろうか。このいじめ体験をまっすぐな成長に繋げてやることが大人の大事な役割ではないか。いじめを通して、いじめられている子ども自身が、いじめる人間に自ら拒否できる強さを持てるように育むことが大人の本来の使命ではないのか。褒めて育てよと発信された安易な子育ての間違いの結果が、子どもの欲望を抑制できず、また、自立心を妨げていると思う。中には、褒めることと煽てることを勘違いして育てている人もいる。叱る、褒める、その愛のタイミングがないがしろにされている。表面に見えた部分だけで子どもを優秀にすることで満たされない欲望を果たし、子どもの栄光を自分の自慢の材料にしている大人も少なくはない。子どもが歪むのは大人の歪みの反映だと思う。
 メディアで取りあげられることは顕在した問題ばかりだ。しかし、顕在した問題には、必ず潜在している問題の数々が取り巻いている。これはリスクマネジメントの考え方、ハインリッヒの法則でも謳われている。「1:29:300この確率で事故は起こる。つまり、1件の重大事故に至るまで、29件の軽微な事故があり、300件のヒヤリ・ハット(インシデント)がある」とされている。この法則はあらゆる事件に当てはめて考えてみることができると思う。大事故になる前に無免許で運転した少年や自殺した少年がそうなるまでにも、300の潜在した問題があったと考えられる。その問題を軽視せずに大人が真摯な姿勢で向き合い注意すべきではなかったか、虐待ではなく愛の心を持った叱りが必要だと思う。真実の愛情とは厳しさから生まれてくると思えるのだ。例えば、オリンピックなどの競技で、厳しい敗戦から勝利よりも素晴らしいことがあるというスピリチュアル性の高い精神を学び得た選手のように。
潜在した問題に、わたしたちはもっと目を向けていかなければならないと思う。問題が顕在化してからでは手遅れなのだ。大きなことにならなければ安易にして流してしまうのは、人間の心の傲慢さと、やはり想像力の乏しさなのだろう。すべての発見、閃き、発明は想像から生まれている。一方的に送信されるメディアに対し受身になってしまうことで、人はメディアに想像力を奪わせている。このことにもっと危険を感じてほしい。想像力を軽視してはならないと思う。相手を慮る人間関係の形成は、この想像力がサポートしてくれていると思う。つまるところ、相手を思いやれるためには相手の心を想像しなくては思いやることはできない。この想像力が歪んでいると相手を思いやっているつもりであっても、それが相手にとって迷惑な行為だったりすることがある。想像力の歪みはその人の持つスピリチュアル性の歪みから生じるものであって、エゴイズムが強くなると歪みが大きくなる傾向があると感じている。また、想像力が五感の感受性を発達させていると思える。研ぎ澄まされた感性も想像力の導きだろう。ポジティヴな想像もその人自身の心の傷を自ら癒すことのできる自浄作用を手助けしている。想像力は人間にとって必要不可欠なものであり、芸術や文学の源もこの想像力なしでは生まれなかっただろう。美を追求する芸術や文学には、偽りの情報で混乱した混沌や邪念の全てを「相手にしない、けれど邪魔にも思わない」という精神で抱き留めていくことが大切だと思える。
 必要なメディアのキャッチは、常に何が必要なのか、自分の中で明確にしておく必要があると思う。そして必要なものだけを呼び寄せるように念じていれば、メディアの方から歩み寄ってきてくれる。この話は体験したものでないと理解しがたいことだろう。目に見えるものではないので、信憑性がないと言ってしまわれればそれまでのこと。きっと、この現象が起こる理由のひとつに、脊柱に沿ってある七つのチャクラの開き方が大きく影響しているように思える。チャクラとはサンクリット語で車輪、円を意味する語。多くの本書には「インド起源の神秘的身体論における物質的な身体(粗大身)と精微な身体(微細身)にある複数の中枢を指す。人体の頭部、胸部、腹部で、輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。七つの虹と同様の光が、脊柱の基底にあたる会陰(肛門と性器の間)に赤、腹部の臍部下に橙色、胸の下部と臍の間に黄色、胸の真ん中に緑色、喉に青色、眉間に藍色、頭頂に紫、と存在し、この光の輪をメインチャクラと呼ばれている」と書かれている。チャクラに関しての詳しい説明は省くが、すべてのチャクラは愛に強く反応し、思考と行動が愛に一致していると光の輪が開通する。おそらく頭頂のチャクラが開いていると必要なメディアがメディアの方からやってくるのではないかと考えられる。いつも愛の視点で、極力他者の喜びを想像するように心がけている。もちろん、想像が違ってしまうこともあるけれど、捨て身の愛の追求を訓練していると、言葉なくとも相手の内側に入り込んだように相手の思いを感じられたりもする。そして、時々プレゼントが舞い降りてくる。それが手紙のように配達された必要なメディアなのだ。メディアだけではない。A氏の詩集が読んでみたいと数日考えていて、先日、その詩団体に連絡をした。A氏と話をすることができ、「今日、ここに来るときに電車の中であなたのことを思い出してしまったよ。そしたら、あなたから電話があってね」とA氏が話されていた。A氏のことを思ったことが、わたしの頭頂のチャクラを通してA氏の頭頂のチャクラに反応したのだろう。こんなことが多くある。やってくるメディアも何かとの目に見えない繋がりから不思議な共時性が起こりキャッチしているのかもしれない。





posted by 水月 りら at 21:53| 散文 | 更新情報をチェックする

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